文部科学省「特異な才能のある児童生徒の指導・支援」有識者会議

文部科学省の「才能のある子の指導・支援」有識者会議の進捗状況

【特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議】(2021年6月~2022年9月)
*「〈才能のある子の指導・支援〉に関する有識者会議」と個人的に略称する。「才能のある子」は、個別プログラムで識別された才能を基準に選抜・認定される狭義の「才能児」とは区別され、また「突出した才能」あるいは「困難を伴う才能児」に限定されない、広義の“gifted”に相当する。実質、有識者会議では対象をそう認識して議論されてきた。
*ここでの情報は、文科省ウェブサイトに公開済みの会議資料と議事録、および当日報道関係者・一般傍聴可能な会議での発言のみに基づく。
*私のコメントは公開情報に対する私見であり、会議全体の合意や報告書に反映されない可能性もある。
■ 第11回会議(2022.06.08)(会議資料)

今回は、今年中に最終的に提出される「審議のまとめ」を取りまとめるために、これまでの議論を踏まえた作成案の資料について議論された。資料として、以下が示された。
①「審議のまとめ」の構成案について
②「審議のまとめ」第3章までの素案
③取り組むべき施策についてのこれまでの主な議論
④教室内で困難を抱える特異な才能のある児童生徒の支援に関するイメージ図
③の内容は今後、「審議のまとめ」第4章に取り入れられる。④は、前回会議で示された資料「取り組むべき施策のイメージ(座長試案)」を更新したものである。

▼コメント

私の発言で画面共有した提示スライドが、「松村委員当日配布資料」として配付資料に含まれているので参照されたい。以下の一点に焦点を合わせて述べる。

●「特異な才能のある児童生徒」の意味は曖昧

中教審答申での「特定分野に特異な才能のある児童生徒」の含意は不明確で、「領域固有の」(domain-specific)の意味なら「特定分野に」は冗長で不要になる。 中教審答申を引用した有識者会議設置要綱では、才能教育は古典的な「領域非依存的」な(IQを基準にした)才能伸長から、近年のこれに加え「領域依存的」な才能伸長の方向に変化していると述べられた。 しかしこの歴史的捉え方は正確ではない。アメリカの才能教育で対象とする才能は本来「領域固有」であり(第1回会議・松村委員提出資料)、古くから才能教育は科学・数学等、領域ごとに行われてきたのだ(資料2,p.4)。
 有識者会議では次第に「特異な才能のある児童生徒」と略して語られるようになった。「特異な才能」は、他の諸会議の構成委員の間でも、暗黙の素朴概念では「突出した才能」(CSTIではIQ130以上など)と捉えられる。 また世間一般でも報道でも、「突出した才能」と読み替えたほうが、話が分かりやすくなる。しかし、有識者会議の議論の対象は突出した才能に限定されてこなかった(本ページ上部注)。
 有識者会議では、「特異な才能のある児童生徒」の本人や保護者等対象のアンケートを実施した(資料2,p.7)。 私の分析では回答者の約半数は「突出した才能」(数学年上の学習内容など)を示したが、約半数はそうではなかった(第4回会議・松村委員提出資料)。 特異な才能は突出しているとは限らないし、特に才能のある子が障碍を伴う(2Eの)場合、また家庭の経済的事情(塾・習い事の利用格差)によっては、潜在的に優れた才能の突出が抑えられる。
 そこで私は、「審議のまとめ」では、「特異な才能のある児童生徒」に代わって、「才能のある児童生徒」と表記する、そして特化の必要のある文脈でのみ「突出した才能のある児童生徒」と表記してはどうかと提案した。 委員の間では、賛成論や懐疑論、判断保留の反応が混在していた。
 「特異な」才能という表現に対して、学校の教師は戸惑うことが十分に予想される。 「審議のまとめ」案では、「特異な才能のある児童生徒…に直接関わるのは第一義的に教師であり、児童生徒の才能や特性を把握し、対応できる資質の育成が期待される」(資料2,p.10)と記されている。 ここから持たれるイメージとして、教師が突出した才能のある子を見分けて、校外プログラムに推薦する役割を期待される。 それには突出した才能の基準(検査の評定値等)が必要になる。しかし教師がそうするのは実質不可能であり、適切な在り方ではない。 (突出した)特異な才能のある児童生徒と、「そうでない児童生徒」(資料3,p.3)、すなわち「才能のない子」(=non-gifted)とラベル付けられる大多数の児童生徒が、教師の意識上でも分断されてはならない。 これに対して、教室内で適切な環境(個別最適な学び)があれば、「全ての」子どもは主体的に自分で才能特性・適合するスタイルを認識して伸ばせる。 これは全ての子どもの拡充モデルSEMと共通の理念である(第7回のページ・コメント参照)。

●「特異な才能のある児童生徒」が定着した場合の留意点

「特異な」を外したほうがいいという提案には、保護者支援団体等、多くの賛同を期待できるが、一般には上記の経緯を了解して広く同意され得るとも思えない。 諸会議の委員にも、意図的な歪曲ではなく素朴概念として「特異な才能は即ち突出した才能で、それを伸ばすべきだ」と信じている人も少なくないだろう。 有識者会議にも当初その議論が期待されていただろう。 実際的な今後の流れとしては、行政上の所作の問題も絡み、結局は「特定分野に特異な才能のある児童生徒」あるいは「特異な才能のある児童生徒」が恒久的に、文科省が正式に使い続ける用語として定着するものと予測される。 もっとも砕けた文脈や話し言葉では、「才能のある子/子ども」といった表現が普通に使われるだろう。
 「特異な才能」の曖昧性を認識した上で、見方によっては、それをむしろポジティブに捉えて活用することもできる。 学校で新たな取組を開始する際のキーワードとして「才能」は日常用語で一般的過ぎるが、新奇な「特異な才能」は「それ何?」と注目を引くことができる。 取組の主体には説明が求められ、説明すべき責務が生じる。それ故、各々の具体的な状況で、どんな才能行動・特性を想定しているのかを十分に説明すれば、関係者の共通認識を得ることができる。
 「(特定分野に)特異な才能」を端的に言い表せば、「何らかの広い領域あるいは細かいテーマについて、通常より優れていると教師や保護者が認めるような、知識・技能や創造性、興味・熱中の表れである。 それは突出している場合もそうでない場合もある。また才能による困難や障害を伴う場合もそうでない場合もある」と緩やかに定義できるだろう。 この前提で、特定の具体的な取組で、どんな種類や程度の才能行動・特性に特化しているのかなどを、児童生徒本人や教師、保護者、報道も認識することができる。 特に実施の拠点となる教育委員会等が、丁寧な説明を広く発信することにより、「特異は突出だけではない」という認識が広まれば、かえって結果的に望ましい。 今後研究実践が進められ、知見が集約・発信される際に、各々の立場の認識の把握も含めて、拠点が情報を集約・提供する必要があるだろう。