2Eを巡る論点

最近、2Eや2E教育への関心・理解が、当事者・関係者や教師だけでなく一般にも高まってきた。しかし誤解や無理解もしばしば見られる。 2Eに対応する日本の教育制度は整っておらず、実践・研究が極めて乏しいという事情もあるが、才能のある子に対応する文科省の新たな取組も始まり、関連する論点を正しく理解しておく必要がある。 ここではごく簡単に主要な点について述べる。本サイトの他のページも参照されたい。

「2E」は「発達の凸凹」と言うより「発達の枝分かれ」がユニークだ

何らかの優れた才能と発達障害等の障碍を併せもつ子どもを、「2E(トゥーイー)の」(2e: twice-exceptional:二重に特別な)子どもと呼ぶ。 例えば、数学や理科、芸術が得意で読み書きの障害をもつ場合などである。 2Eの子は、才能を伸ばす面と障碍による困難を補う面の両方に、二重に特別な支援を要する。
 2Eは(発達障害だけでも)「発達の凸凹」と言われることがよくある。 発達の凸凹(得意と苦手のギャップ)は誰にでもあるが、凸凹が大きくて学習・生活上の支援が必要になる場合もある。 知能検査等の標準検査では、発達の標準・定型からのズレは異常や遅れとして認識され、下位指標間のアンバランスは「発達の凸凹」や「非同期性」と見なされる。 ここには、早い遅いはあれ、誰もが同一の発達の道筋 を辿るという素朴概念が反映されている。 これに対して、「発達多様性」の考え方では、発達は個人の各機能や特性が個性的に「枝分かれ」して、ユニークな形の大樹に育つとイメージされる。 すると、個人の凸凹の「凹」を標準に近づけようとすることだけが発達支援ではなく、枝分かれを伸ばせる環境を公正に整えようとすることが、優先的に目指すべき理念になるだろう。

「ギフテッド」は「障碍・困難に支援が必要な子」に限定されない

昨今、「ギフテッド」という用語が、「突出した才能(をもつ人)」あるいは「(突出していなくても)才能と障害・困難を併せもち支援が必要な(人)」という意味に限定して用いられることがよくある。 「突出した才能」の意味では、「非常に高い知能(IQ)」が素朴にイメージされる。 国の行政レベルの「才能」を巡る議論では、将来、国をリードするトップ人材育成と関連付けられる。 突出した才能の「ギフテッド」を語る際に、エジソンなど天才的人物を引き合いに出すことが多い(特に報道での話のパターンとして)。 そしてこれらの人々は発達障害を伴ったと語られる。これが、「ギフテッド」とは「突出した才能と発達障害を併せもつ」というイメージを強める。
 文科省の「有識者会議」では、「ギフテッド」は限定されたイメージが論者により異なり議論が混乱するため、この用語は用いず、結局「特異な才能」と表現することになった。 「特異な才能」には幅広い領域・特性や程度の才能が含まれ、英語本来の意味の"gifted"に相当する。 敢えて「特異な才能」と呼ぶのは、教育行政用語として、新しい理念の取組を象徴するキーワードだからだと認識しておけばよいだろう。 これに関わらず、一般の慣用で「ギフテッド」と呼ぶことは差し支えない。 しかしその使用者は、特定の議論の文脈やコミュニティ内で、どんな特定の意味内容で用いているのかを明確に自覚・表明して、共通理解を図るべきだ。
 「ギフテッド」の誤解について言い添えると、「アメリカではギフテッドは6.7%存在する」等、語り伝えられることがある。これは説明無しでは誤解を招く。 アメリカでは「才能教育」(gifted education)の実施は州や地域の判断に任され、「才能プログラムの対象者の割合は、州によって1%以下から十数%まで大きな幅がある」という統計結果があった。 全国各州を平均すれば約6.7%になるが、プログラム対象者としての「才能児」の割合は、その地域の教育理念・政策や人材・資源の豊富さという実際的事情に左右され、プログラムの収容人数(キャパ)しだいで恣意的に変わる。 「ギフテッドの子は何%か?」という問いは無意味だが、充分な条件が整えば、通常の教育課程を超えてニーズに対応すべき多様な才能のある子は、1、2割いるはずで、「ギフテッド教育」は決して「天才教育」ではない。

「特異な才能」はIQなど特定の基準で一律に定義できない

才能のある子の基準として「「高い知能指数(IQ)」が素朴にイメージされる。 内閣府の「総合科学技術・イノベーション会議」でも、「特異な才能のある子供」をIQ130以上と仮定した。 しかし、もし「特異な才能のある子」を「IQ130以上」などと定義したら、様々な問題が生じ得る[この説明はNITS校内研修動画①を参照]。 そのため、有識者会議「審議のまとめ」では、特定の基準や数値による才能の定義に当てはまる子どものみを「特異な才能のある児童生徒」と取り扱うことはしないと明言された。

「特異な才能」の基準は個別の取組ごとに決まる

才能のある子の定義や基準が予め示されないと、何らかの取組の対象者を判断できなくて困るという、誤解や不安も見られる。 しかし、「審議のまとめ」にも記されたように、才能の把握は、個別プログラムや施策の目的・内容に応じて、実施主体が個別に行うのだ。 これは個別の学校の入試の事情と同様で、また数学と音楽教育プログラムとでは、対象者に求める能力は当然異なる。 それだけに、具体的な取組では才能をどんな意味に特化しているのか、どんな才能行動・特性を想定しているのかを意識して明示することが望まれる。

2Eは一律の定義で判定できない

2Eの子が知能検査で高得点の場合、「ギフテッド(高知能)」だと指摘(判定)されることもあるが、「ギフテッド」という(疾患の) 診断名はない。 「ギフテッドと診断された」という誤解が「ギフテッド=発達障害」という混同も招く。
 アメリカでは、才能教育の公式な才能識別基準で「才能児」を判定でき、その子が診断された発達障害を伴えば「2E」だと認定できる。 ただし当該の障碍種は一定しない。日本では、特別支援教育として2Eにどう対応するのかという喫緊の課題は、文科省でも議論されていない。 2Eの障碍面について対象者の範囲を合意しにくいし、才能面についても上記のように一律の定義づけには問題がある。 それでも2Eに相当する「才能と障害を併せ有する児童生徒の対応」の必要性は「審議のまとめ」で述べられ、「支援の推進事業」の課題となっている。 2Eとラベル付けた選別は避けるべきだが、支援が必要な2Eの特性のある子は確かに存在する。

「困っている才能のある子」には、「才能による困難のある子」もいる

才能のある子の困難は、2Eのように障害特性による場合だけでなく、才能特性による場合もある。 有識者会議のアンケート調査でも、学校で才能が原因の困難として、次のような回答例が見られた。 ①学習面:授業が簡単過ぎて退屈・苦痛だ、②対人面:仲間とは難しい話が合わない、いじめられる、③教師の対応:才能を理解してもらえず、発言・質問を無視・否定される。 ただし、特に困っていない才能のある子(本来の広い意味のギフテッド)も多くいる点は、注意しておくべきだ。
 学習・生活上の困難は、個人に内在した特性というより、環境との適合性・相互作用に左右される。 「才能による困難」の要因の一つに「超活動性」(OE:overexcitability)があると指摘される(過興奮性、過度激動という訳語も)。 OEには「自然の美しさに感動する」等の行動も含まれ、OE自体が困難な特性ではない。
 才能のある子のOEが不適応的に働けば、困ったこだわりや神経症的完璧主義など、学習・社会情緒的な問題として表われ、学業不振や不登校に陥ることもある。 しかしOEが適応的に働くような、適合した環境に整えることによって、望ましいこだわりや完璧主義に変えることができ、優れた問題解決や創造にもつながる。
 なお、OEの特性は、ADHDやASDの発達障害に表面上似ることもあり、誤診・過剰診断されることもある。 ただし両者は差異の手掛かりから区別できる場合もあるが、明解に判別できるものでもない。 保護者が「発達障害ではなくOEをもつギフテッドだ」と先入観をもつべきではない。
 まずは、「困っている才能のある子」は、どの学校でもたいていの学級に存在することが、広く認識される必要がある。 教師がその特性に気づいて、子どもの内面を理解することが重要な鍵となる。 教師が才能面を肯定的に認めて、才能と困難に目を留めていることを示すだけでも、子どもの気持ちは救われ、学級が居場所になり得る。

(©松村暢隆,2015, 2023)

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[引用記載例・本文中:…(松村, 2023)。・文献欄:松村暢隆(2023)「2Eの論点,2E教育フォーラム」,https://2e-education.org/(2023年4月1日最終確認)]